August 15, 2015

戦中派不戦日記 山田風太郎 (P317) 十五日(水)炎天 ○帝国ツイニ敵ニ屈ス(1945年8月)

1508futaro

よほど衝撃を受けたのでしょう。
当日の日記には この記述のみ。
そして翌日(16日)の日記に
「○八月十五日のこと。」と稿を改め 21頁にわたって心情を吐露。
ただ 私の興味は極々一般的な民衆の反応の方に。
荷風散人とは趣を異にする異次元の反応がなかなか興味深いです。

ということで 会話を中心とした「かぎ括弧」を抽出。

「休戦?
 降伏
 宣戦布告?」
 と、3つの単語を並べた紙片がそっと回って来たときには躊躇なく「宣戦布告」の上に円印を付けた。

「最後の一兵まで戦え」
 陛下のこのお言葉さえあれば、まさに全日本人は歓喜の叫びを発しつつ、その通り最後の一兵まで戦うであろう。

「先生、十二時に天皇陛下の御放送がありますから、すみませんがもう授業をやめて下さい」
「承知しています」
 と、教授は落着いたものであった。
「しかし、まだいいでしょう」
「いえ、ラジオをきくのに遠い者もいますから、どうか......」
 教授はしぶしぶと「薔薇粃糖疹」の講義をやめた。

 教授も学生もことごとくソビエトに対する宣戦の大詔だと信じて疑わなかったのである。
 一人が例の紙片を書いた張本人をつかまえてやっつけている。
「どうして休戦なんて書いたんだ。今やめれば、サイパンも沖縄も硫黄島もとられっぱなしじゃないか。そんなことになれば大騒動が持ち上がる。宣戦布告にきまっているじゃないか!」
 降伏などは論外においたけんまくである。

「天皇陛下の御声ってどうだろうな」
「東海林太郎とどうかね」
 そんなことをいって4人は笑った。

「どうなの? 宣戦布告でしょう? どうなの?」
 と、おばさんがかすれた声でいった。訴えるような瞳であった。

「済んだ」
 と、僕はいった。
「おばさん、日本は負けたんだ」
「どうしたんだ? え、どうしたんだ?」
 と、驚いたことに柳沢もいった。し
かしその眼の色は、彼がすでに真実を知っていることを示していた。


「共同宣言を受諾する、という言葉が真っ先にあったろう」
 と、僕は答えた。
「あれはポツダム共同宣言だ。米国、英国、蒋介石の日本に対する無条件降伏要求の宣言をいっているんだ」
「く、口惜しい!」
 と、一声叫んでおばさんは急にがばと前へうつ伏した。

「お可哀そうに......天皇さま、お可哀そうに......」
 肩をもんで泣きつづけるおかみさんの声をよそに、ラジオは冷静にポツダム宣言成文を読み上げている。

 佐竹さんの下宿の前を通りかかったら、
「おうい、恐ろしくシュルンペンしてるな。元気だせよ!」
 という声がして、高い窓から笑った顔がのぞいた。上れというから上って見る。
「戦争はこれからですぜ」
 という。じっと顔を見ていたら
「どうしてこれが納まりますか。どうせ僕は、親父も姉も祖母も広島でやられちゃいました。女房は――田舎に疎開させていますが、離縁します。これが手紙のやり納めです」
 と、一通の封筒を投げ出した。佐竹さんはもう三十を回った人である。
「一戦やります。必ず一泡吹かせる連中が出て来ますから、それに参加します。山に立て籠もってやるんです。ええ、このままでは絶対やめられませんよ」
 と気焔を上げているところに、佐多が顔を出して、酒は一升とか、二升とか話しかける。どうやら今夜東京庵で闇の酒でも仕入れてヤケ酒を飲むつもりらしい。
 まだ目が醒めないのか、と思った。今夜こそ、夜を徹しても、なぜ日本は敗れたか、という問題を考えつめるべき夜ではないのか。今さら何のヤケ酒ぞや、と腹が立ったが、日本人に対する寂しさの念が口をつぐませた。


どう考えても 私には 山田誠也青年(当時23歳)のような沈着冷静さは望むべくもなく 「おばさん」や「佐竹さん」のように周章狼狽してしまうような気がします。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

May 03, 2015

「五月初三。雨。米人の作りし日本新憲法今日より実施の由。笑ふべし」永井荷風 断腸亭日乗 昭和22(1947)年5月3日より。

(摘録 下巻 P309)
この一言だけです。随分と冷ややかですこと。
私が憲法批判に最初に接したのは 文藝春秋誌上で展開された保守論客の村松剛さん(1994年没)や福田恆存さん(1994年没)や黛敏郎さん(1997年没)たちの論説と 三島由紀夫さん(1970年没)の『文章読本』などから。
そして「新しい歴史教科書をつくる会」の発足は1996年 青嵐会の結成は1973年。

1505mishima

文章読本 三島由紀夫(1973年 中央公論刊)
(P29)
 ここで口語文について、われわれの現代の文章にもっとも深い影響を与えている翻訳文のことを述べなければなりません。皆さんは終戦後のマッカーサー憲法の直訳である、あの不思議な英語の直訳の憲法を覚えておいでになると思います。それはなるほど日本語の口語文みたいなもので綴られておりましたが、実に奇怪な、醜悪な文章であり、これが日本の憲法になったというところに、占領の悲哀を感じた人は少なくなかったはずです。もし明治時代に日本が占領されていたとしたら、同じ翻訳であっても、もっと流麗な美文で綴られたことでありましょう。

ついでに
(P32)
...たとえば近い例は、大江健三郎氏の文章はそのままサルトルの翻訳だと言っても、誰が不思議に思うでありましょう。もちろんサルトルと大江氏の文章は発想においても資質においてもちがっていることはもちろんであります。彼は意識的にその用語を、サルトルの使ったような用語の概念に近づけようとして使っております。
(P33)
...そのもっとも極端な例は、石原慎太郎氏の『亀裂』の文体のようなもので、ここでは、日本語は一旦完全に解体されて、互助も文法もばらばらにされて、不思議なグロテスクな組み合わせによって、異常な効果を出しています。しかし石原氏にとって損なことは、その文章が横光利一氏のように、故意の翻訳体の形において人の感覚に刺激を与え、それから目覚めさせるという効用を、現在はほとんど持っていないことであります。

意外にも 大江さんより石原さんに対して手厳しいのですね。

ということで 憲法記念日恒例の羅生門の日本国憲法を。今年は「戦争の放棄」でお祝いしましょう。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

March 31, 2015

断腸亭日乗 昭和19(1944)年3月31日

オペラ館最後の日。(摘録 下巻 P227)
昭和12年威三郎さんとの確執の中で実母の死(下巻 P23)に際しても あれほど冷徹な文学者であった荷風散人も些か感傷的に。
もっとも 戦後はオペラ館を上回る「ロック座」という格別の別天地を浅草に見出すのですが...
何はともあれ この美文・名文には衝撃を受けました。

 昭和十九年三月卅一日。昨日小川来りて、オペラ館取払となるにつき明日が最後の興行なれば是非とも来たまへと言ひてかへりし故、五時過夕餉をすませ地下鉄にて田原町より黄昏の光をたよりに歩みを運ぶ。二階踊子の大部屋に入るに女たちの鏡台既に一ツ残らず取片づけられ、母親らしき老婆二、三人来り風呂敷包手道具雨傘など持去るもあり。八時過最終の幕レヴューの演奏終り看客立去るを待ち、館主田代旋太郎一座の男女を舞台に集め告別の辞を述べ楽屋頭取長沢一座に代りて荅辞を述る中感極り声をあげて泣出せり。これにさそはれ男女の芸人凡四、五十人一斉に涙を啜りぬ。踊子の中には部屋にかへりて帰仕度しつゝなほしくしく泣くもあり。各その住処番地を紙にかきて取交し別を惜しむさま、数日前新聞紙に取払の記事出でし時余窃に様子を見に来りし時とは全く同じからず。余も覚えず貰泣せしほどなり。回顧するに余の始めてこの楽屋に入込み踊子の裸になりて衣装着かふるさまを見てよろこびしは昭和十二年の暮なれば早くも七年の歳月を経たり。オペラ館は浅草興行物の中真に浅草らしき遊蕩無頼の情趣を残せし最後の別天地なればその取払はるると共にこの懐しき情味も再び掬し味ふこと能はざるなり。余は六十になりし時偶然この別天地を発見し或時は殆毎日来り遊びしがそれも今は還らぬ夢とはなれり。一人悄然として楽屋を出るに風冷なる空に半輪の月泛びて路暗からず。地下鉄に乗りて帰らんとて既に店を閉めたる仲店を歩み行く中涙おのづから湧出で襟巻を潤し首はまたおのづから六区の方に向けらるるなり。余は去年頃までは東京市中の荒廃し行くさまを目撃してもさして深く心を痛むることもなかりしが今年になりて突然歌舞伎座の閉鎖せられし頃より何事に対しても甚しく感傷的となり、都会情調の消滅を見ると共にこの身もまた早く死せん事を願ふが如き心とはなれるなり。オペラ館楽屋の人々は無智朴訥。或は淫蕩無頼にして世に無用の徒輩なれど、現代社会の表面に立てる人の如く狡猾強慾傲慢ならず。深く交れば真に愛すべきところありき。されば余は時事に憤慨する折々必この楽屋を訪ひ彼等と共に飲食雑談して果敢き慰安を求むるを常としたりき。然るに今や余が晩年最終の慰安処は遂に取払はれて烏有に帰したり。悲しまざらんとするも得べけんや。

ということでLast Days Of The Fillmore。

私はこの映像を見て青山エイコーに突進 ベルボトムからストレート・ジーンズに宗旨替えを。 ただしLEEは高かったので LEVI'Sの505ということに...

| | Comments (0) | TrackBack (0)

March 01, 2015

「この世はさながら地獄の如くになれり」 永井荷風 断腸亭日乗より。

年初から「上海将棋倒し」「パリ新聞社襲撃事件」「ユダヤ食品店人質事件」「イスラム国日本人殺害事件」「19歳の女子名大生殺人事件」「和歌山小5刺殺事件」「川崎中1殺人事件」と血なまぐさい事件の推移を見守るばかりの毎日でした。
ただ私ごときが軽々にBlogで論ずる事柄ではなさそうなので Blog更新がお留守になりがちなのも仕方のないところ。

それにしても イスラム国日本人殺害事件の最中に来日したトマ・ピケティ先生と「19歳の女子名大生殺人事件」にすっかりお株を奪われた「つまようじ混入 19歳少年」は気の毒でした。
考えてみると 今年になってからの明るい話題は「百田尚樹『殉愛』の真実」発売と大塚家具のお家騒動ぐらいではないでしょうか...

なお「名古屋大学の女子学生」を省略するにあたっては 「女子大生」ではお嬢さま学校を連想し 「女学生」では女子高等師範学校を連想してしまいそうなので 「名大女子学生」より一文字少ない「女子名大生」を採用。女子にこだわるのは若干性差別的ではありますが...

荷風散人は 二・二六事件の年『摘録 断腸亭日乗(上)』で
(P351)
昭和十一年四月十日。新聞の雑報には連日血腥きことばかりなり。昨九日の新聞には小学校の教員その友の家にて或女を見染め妻にせんと言寄りしが、娘承知せざれば教員は直に女の親元に赴き掛合ひしが同じく断られたり。教員は警視庁人事相談掛のもとに到り相談せしに、これまた思ふやうに行かず、遂に殺意を起し劇薬短刀等を持ち娘の家に乱入せしところ、娘は幸 外出中にて教員は家人の訴によりその塲にて捕へられたりといふ。乱暴残忍実にこれより甚しきはなし。現代の日本人は自分の気に入らぬ事あり、また自分の思ふやうにならぬ事あれば、直に凶器を振つて人を殺しおのれも死する事を名誉となせるが如し。過日陸軍省内にて中佐某のその上官を刺せしが如き事に公私の別あれどこれを要するにおのれの思ひ通りに行かぬを憤りしがためならずや。人生の事もし大小となくその思ふやうになるものならば、精神の修養は無用のことなり。むかし屈原は世を憤りしが人を殺さず、詩賦を貽して汨羅の鬼となりき。現代日本人の暴悪残忍なるは真に恐るべし。今朝の新聞には市内の或銀行の支配人にて年既に五十を越えたるが、借金に苦しみ其その妻とその子三、四人を死出の旅の道づれとなせし記事あり。邦人の残忍いよいよ甚だしくその尽る処を知らず。この世はさながら地獄の如くになれり。この日陰。風寒きこと厳冬の如し。

と記していらっしゃいますが まさに「この世はさながら地獄の如くになれり。」の今日このごろです。

ということで 久々に「I Can See Clearly Now / Johnny Nash」をヴィニール・コレクションに追加しました。

1502nash

I Can See Clearly Now / Johnny Nash / 1972年
ごくごく一般的なRock少年だった私は 1972年当時 Reggaeなどという民族音楽を知る由もなく 後追いです。 ご多分に漏れずJimmy Cliff, Bob Marley & The Wailers辺りからReggaeを聞き出したのですが いつの間 にかBlack Uhuru, Linton Kwesi Johnson, Scientistなど刺激の強い音に取り憑かれてしまい その時点で聴いた王道を行くJohnny Nashに対する反応は鈍かったと記憶。

ザ・ブルース増刊 レゲエ・ブック 1979年6月より。
レゲエ・アルバム88撰(藤田正 P89)
I Can See Clearly Now / Johnny Nash
 いい歌手だ。原曲よりぐっとテンポを落として「グァヴァ・ジェリー」の、サッとレゲエのリズムに変わるところ、コーラスも加わって、心が揺れる。この前後の「ザッツ・ザ・ウェイ・ゲット・バイ」、「ソー・ナイス・ホワイル・イット・ラステッド」も、彼が一流のソウル・シンガーの才覚をもそなえた人物だということを知らせてくれるソウル・ナンバーだ。声のトーンが高く、歌の線の細い人だが、それだけに、知らず知らずのうちに歌が聞き手にしみ込んでくる。この人はスローでじっくり歌うのが特長で、ミディアムの曲もそのためにフトコロがゆったりと作ってある。彼の大好きなシンガー、ボブ・マーリーとの共作「ユー・ボアド・シュガー・オン・ミー」そして彼の最大のヒット「アイ・キャン・シー・クリアリー・ナウ」もプロデュース(彼自身がやっている)も、曲作りも、歌も、ここに書くのがめんどうなくらいよくて...。72年のレコード。
今は憑き物も落ち 普通に楽しんでおります。

風貌だけでなく Reggaeを愛でる異邦人という意味でもジョー山中さんと共通点があるようです。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

February 21, 2015

断腸亭日乗 昭和12(1937)年 2月21日(下巻 P9)

二月廿一日日曜日 快晴の空雲翳なし。午後笄町長谷寺の墓地を歩む。門内は本堂建直しの最中なり。古き渋塗の門に普陀山の額あり。大正三、四年のころ写真うつしに来りし時見しところに異ならず。旧観喜ぶべし。墓地には往年の如く松杉欝然、昼なほ暗く、鴉のなく声深山に在るが如き思あらしむ。偶然花井お梅の墓あるを見たれば落葉焚く寺男にたのみて香花を供ふ。花井家の墓石は三基ありて卒塔婆多く立ちたり。展墓の人絶えざるものと見えたり。広尾の天現寺前に出るに道路取ひろげとなり、かつて見たりし水車も筧も皆なくなりぬ。光林寺の門に入り堂後の丘阜に米国人ヒュースケンの墓を帚ふ。一昨年アルコツク公使の著書をよみてよりまた近年刺客の横行するを見て、余はヒ氏の不幸を思合せ、先頃よりその霊を吊ひたしと思ひゐたるなり。この日春の夕日おだやかに古墳を照し、梅花の満開するを見る。惆悵去るに忍びざるの思あり。電車にて銀座に至り不二あいす店に夕餉を食す。たまたま沢田氏の来るに会ふ。風邪の気味なれば食後直に家にかへる。

荷風散人はヒュースケンさんが気になっていたようで

断腸亭日乗 昭和11(1936)年 2月14日(上巻 P345)
二月十四日。晴れて風静なり。この頃新聞の紙上に折々相沢中佐軍法会議審判の記事あり。〔この間一行抹消。以下行間補〕相沢は去年陸軍省内にてその上官某中将を斬りし者なり。新聞の記事はその〔以上補〕最も必要なる処を取り去り読んでもよまずともよきやうな事のみを書きたるなり。されど記事によりて見るに、相沢の思想行動は現代の人とは思はれず、全然幕末の浪士なり東禅寺英国公使館を襲ひあるいは赤羽河岸にヒュウスケンを暗殺せし浪士と異なるものなし。西洋にも政治に関し憤怒して大統領を殺せしもの少なからず、然れども日本の浪士とは根本において異なる所あり。余は昭和六、七年来の世情を見て基督教の文明と儒教の文明との相違を知ることを得たり。浪士は神道を口にすれどもその行動は儒教の誤解より起り来れる所多し。そはともあれ日本現代の禍根は政党の腐敗と軍人の過激思想と国民の自覚なき事の三事なり。政党の腐敗も軍人の暴行もこれを要するに一般国民の自覚に乏しきに起因するなり。個人の覚醒せざるがために起ることなり。然りしかうして個人の覚醒は将来においてもこれは到底望むべからざる事なるべし。〔以下六行抹消〕

いわゆる儒教的な倫理感や道徳感には一家言ありそうな厭世的な荷風散人の「儒教の誤解」という文言についつい反応してしまいました。
東禅寺英国公使館を襲撃したのは水戸藩脱藩の攘夷派浪士・有賀半弥ら14名。(1861年5月28日)2度目は東禅寺警備松本藩士伊藤軍兵衛とのこと。(1862年5月29日)
ヒュースケンを襲撃したのは攘夷派『浪士組』所属の薩摩藩士、伊牟田尚平・樋渡八兵衛らとのこと。(1861年1月14日)
相沢中佐が斬殺したのは永田鉄山軍務局長とのこと。
日本もまだまだテロ真っ盛りの頃。そして昭和11(1936)年 2月26日を迎えることに。
もしかすると当時の西欧諸国は 日本を「イスラム国」のような国だと思っていたのかもしれませんね。

| | Comments (1) | TrackBack (0)

September 08, 2014

断腸亭日乗 昭和12(1937)年 9月8日(下巻 P22)

今日は荷風散人ご母堂様の命日。ご兄弟の確執から荷風散人は臨終にも立ち会うことなく葬儀にも参列なさりませんでした。

 九月八日。南風吹きすさみ塵烟濛々たり。朝の中より民衆歓呼の声遥に聞ゆ。哺下午睡より覚めて顔を洗ひゐたりし時、勝手口に案内を請ふものあれば戸を開き見るに、従兄永井素川氏なり。ケントン夏服にパナマ帽をかぶりたり。西大久保伯母上危篤なれば直に余が車に乗りて共に行かるべしといふ。何はともあれちょつと顔を出されたし、これ僕が一生の御願なりなど、言葉軽く誠に如才もなき勧め方なり。余は平生より心の底深く覚悟する所あれば、衣服を改め家の戸締りなどして後刻参上致すべければ御安心あるべしと、体よく返事し素川君を去らしめたり。風呂場にて行水をなし浴衣のまま出でて浅草に至り松喜に夕餉を食し駒形の河岸を歩みて夜をふかし家にかへる。

   九月九日。哺下雷鳴り雨来る。酒井晴次来り母上昨夕六時こと切れたまひし由を告ぐ。酒井は余と威三郎との関係を知るものなれば唯事の次第を報告に来りしのみなり。葬式は余を除き威三郎一家にて之を執行すといふ。共に出でて銀座食堂に夕飯を食す。尾張町角にて酒井とわかれ、不二地下室にて空庵小田その他の諸氏に会ふ。雨やみて涼味襲負ふがごとし。

〔欄外朱書〕母堂鷲津氏名は恒、文久元年辛酉九月四日江戸下谷御徒町に生る。儒毅堂先生の二女なり。明治十年七月十日毅堂門人永井久一郎に嫁す。一女三男を産む。昭和十二年九月八日夕、東京西大久保の家に逝く。雜司谷墓地永井氏塋域に葬す。享寿七十六。追悼。泣きあかす夜は来にけり秋の雨。秋風の今年は母を奪ひけり。


なにやら いつもとはまた違う寂寥感が漂います。
荷風散人のご兄弟の確執から うっかり長嶋茂雄一族の長嶋仁子・一茂組と長島三奈さんの諍いを連想。
兄妹は仲良くありたいものです。
巷間賑わす江角マキコさんとの騒動からも 長嶋"ドルフィン"仁子さんの人となりに興味津々です。
それにしても 近いうちに必ず訪れるであろう「その時」のためだけにメディアから珍重されている「掛け捨て保険」のような存在の一茂くんが不憫です。

ということで まったく無関係の「World Of Wonders / Bruce Cockburn」をちょっと照れるコレクション音楽に追加しました。

1409bruce

World Of Wonders / Bruce Cockburn(MCA-5772)

80年代半ばのSinger Sonwriterものの定点観測でEric AndersenRichard Thompsonとともに購入。SpringsteenのBorn in the U.S.Aを思わせる音造りとIMFまで登場する高尚な歌詞にたじたじ。処分するのは当方の力不足を認めることとなり悔しいので 棚で熟成することに。

Call It Democracy

IMF dirty MF
Takes away everything it can get
Always making certain that there's one thing left
Keep them on the hook with insupportable debt

| | Comments (0) | TrackBack (0)

May 06, 2014

噂の真相 2002年1月号 新作「シャトウ ルージュ」が話題の渡辺淳一の性愛生活を愛人が全告白

1405uwasa20021

私は2年間の愛人生活で性病までうつされた......
(P34)

「日本経済新聞」朝刊裏面の文化欄や私の履歴書を読むふりをしつつ『化身』を貪り読んでいた頃を思い出します。
「噂の真相」においても田中康夫さんと宅八郎さんの攻防とともに 噂の真相と渡辺淳一先生との攻防戦は 毎回楽しく拝読させて頂いておりました。
そして 次第に渡辺先生に肩入れするようになったのですが そのきっかけは この実に下品で醜悪な記事のせいだったと思います。

1405watanabe

自称元愛人の怪文書

 一言でいうと渡辺淳一の「一物」はすごく「短小」。勃起時でもたばこの長さ程度で、太さも直径一・五センチくらい。

 私は(略)実際に渡辺の一物を見ているから真実を知っています。(略)たとえ短小でも性格がよかったら救われるのにね。でもだから小説を書くんだね。(略)売れなくなったら「短小のお爺さん」ですからね。

ポスト川島なお美の愛人A子さん談

 たしかに、やっぱり大きくはありませんでした。でも、「短小」というほどでもない。「コンドームがスルスル抜ける」とも書いてありましたが、だいたい私、先生とはコンドームを付けてしたことがないから分からないんです(笑)。

 そもそも渡辺先生の場合、大きさ云々は問題ではないんです。だって私、はじめてのエッチの時にはもう、2回はイカせてもらいましたからね。それも入れる前に(笑)。先生はテクニックもさることながら、まず言葉責めがすごいんです。

 そのうえ先生は"ゴッドフィンガー"の持ち主ですから。ゴッドハンドというより、本当に、まさに"ゴッドフィンガー"(笑)。

いやはや まったくもってお下劣極まりない内容です。
「噂の真相」の猛攻撃にも全く動じない渡辺先生の様子に業を煮やし とうとう禁じ手の閨房の睦言暴露や下半身描写となってしまいました。
この記事で 勝敗はほぼ決したと申せましょう。
このあとの 先生の「トリコモナス」疑惑については 私には死者に鞭打つような真似はできませんので 割愛させていただきます。

なお 私は先生が微に入り細にわたる描写の実名入り情交日記を記していて 秘蔵画像・映像も存在すると確信しております。
東京ペログリ日記」を凌ぎ「断腸亭日乗」に匹敵する日記文学となる可能性は高く 切に出版を希望します。
もちろん写真集やDVDの流出も密かに期待しています。
また 川島なお美さんのヘアー筆のようなコレクションもぜひ披露していただきたいものです。

ということで 謹んで哀悼の意を表します。

渡辺先生の日記には 断腸亭日乗を超える描写が必ずあるはずです。

断腸亭日乗 昭和18(1943)年6月2日
(P194)

街談録

公園の芸人某より玉の井の噂をきくに、例の抜けられますとかきし路地の女の相場まづ五円より十円となれり。閨中秘戯に巧みなるもの追ゝ少くなれり。花電車といふ言葉も大方通ぜぬようになりたり。 お客に老人少なくなり青二才の会社員また職工多くなりしためなるべし。されど七、八百人もゐる事なれば中には尺八の上手なものもなきにはあらず。この土地にて口舌を以てすることをスモーキングといふ。一部賑本通西側なる大塚といふ家には去年頃まで広子月子なな子勝子といふ四人いづれも五円にてスモーキング専門の放れわざをなしたり。 只今は時子といふ女一人居残りたり。それより四、五軒先土井といふ家の女も拾五円にて口舌のサービスをするなり。その先の市川といふ家にも同様の秘戯をなすもの一人あり。されどこれはお客にもおのれのものを甞めさせねば承知せぬ淫物なり。桑原の店には金さへ出せばのぞかせる女あり。無毛の女はこの土地では案外いそがしくその数も随分あり。一部広瀬方、四部長谷川方にゐる女は無毛を売物となし曲取り至って上手なり。云ゝ。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

April 22, 2014

四月廿六日 日曜日 晴。庭の杜鵑花胡蝶花満開、木苺の白き花郁子の花と共に散りそめたり。

断腸亭日乗(下)より 昭和17(1942)年(P170)

岩波書店の摘録(1987年)ではルビに「つつじ(躑躅)」となっていますが 季節的には杜鵑花(さつき)なのか判断に苦しみます。
「郁子」は川井郁子さんや原田郁子さんの「いくこ」ではなく 谷岡郁子さんの「くにこ」でもなく 中川郁子さんの「ゆうこ」でもなく 「むべ」。
花の名前は本当に厄介です。

そして「巷の噂」として 以下の文章が続きます。

昭和十一年二月廿六日朝麻布聯隊叛軍の士官に引率せられ政府の重臣を殺したる兵卒はその後戦地に送られ大半は戦死せしやの噂ありしが事実は然らず。戦地にても優遇せられ今は皆家にありといふ。余の知りたる人はもと慶応義塾の卒業生にて叛軍士官に従ひたる者。過日偶然銀座街上にて邂逅 し重臣虐殺の顛末及び出征中のはなしを聞きたり。南京攻撃の軍に従ひ二年半彼地にありしといふ。南京は一度に落ちしにはあらず。二回敵軍に奪回せられ、三度目に至り初て占領するを得たりしなりといふ。この人は高橋是清の機関銃に打たれて斃るるさまを目の当たりに見、また中華人の数知れず殺さるるを目撃しながら今日に及びては戦争の何たるかについては一向に考ふるところなきが如し。戦争の話も競馬のはなしも更に差別をなさぬらしく見ゆ。今日の世にはかくの如き無神経の帰還兵士甚多し。過去の時代にはトルストイなどいふ理想家のありしこと夢にも知らぬなるべし。

南京大虐殺についての記述は「自虐史観」ということになるのでしょうか?
安倍総理の「給料の 上がりし春は 八重桜」という発句?から推察しうる教養程度を勘案すると 断腸亭日乗の読解能力を有するとは思えませんが。

荷風散人は 二・二六事件に関わった兵卒の境遇に多大なる関心を寄せていらしたようで

昭和18(1943年)の1月25日の日記(P186)にも

蒙古の名も知れぬ要塞の守備隊に編入せられ、昨ゝ年昭和十六年まで六年間勤務し昨年漸く帰国除隊を命ぜられたり。六年間勤めて僅かに上等兵になりしのみなり。

との記述が。

全く関係はないのですが「猫はブラームスを演奏する / リリアン・J・ブラウン」を海外推理小説に追加しました。

1404brahms

猫はブラームスを演奏する / リリアン・J・ブラウン
(早川書房 2001)
主人公:ジム・クィララン(新聞記者)

クィラランが大富豪となる経緯が明らかとなります。 クィラランは休暇を取り母の親友の資産家ファニー伯母さんを40年ぶりに訪ねることになりますが 都会育ちの主人公は 田舎の暮らしに戸惑うことばかり。 ここでのブラームスは『バイオリンとチェロのための二重協奏曲イ短調』。 私は ブラームスというと 『恋人たち』や『さよならをもう一度』などの恋愛映画を思い浮かべてしまう薄気味悪い爺です。

恋人たち

さよならをもう一度

| | Comments (0) | TrackBack (0)

December 07, 2013

すみだ川 / 東海林太郎・島倉千代子

島倉千代子さんが2013年11月8日にお亡くなりとのこと。
謹んで哀悼の意を表します。

東海林太郎先生ならば 壇蜜さんとのDuetsでも直立不動でお歌いになったのでしょうね。
そういえば 「すみだ川」は荷風散人の小説を題材にしたものとか。
荷風散人と壇蜜さんなら オペラ館の踊り子さんのように心が通い合いそうです。

断腸亭日乗(下)より
昭和15(1940)年
(P120)
 十二月廿七日。天気よし。午後に起出でて昏暮土州橋より浅草に至りオペラ館楽屋に遊ぶ。踊り子の一人余の小説『すみだ川』の一節を取りて流行唄にせしものレコード屋にありといふ。国際劇場前のレコード屋なりといふにほどちかければ幕間の休みを見て共に征きてこれを購ふ。表面は『すみだ川』裏面は森先生の『高瀬舟』なり。何人の為せしものなるか。その悪戯驚くべきなり。

 流行歌すみだ川 山田栄一作曲 東海林太郎 ポリドール楽団
(前畧)

 娘ごごろの仲見世あるく
 春を待つ夜の年の市
 更けりや泣けます今戸の空に
 幼馴染のお月さま

  コノ間セリフアリ畧ス

 都鳥さへ一羽ぢゃ飛ばぬ
 むかし恋しい水の面
 逢へば溶けます涙の胸に
 河岸の柳も春の雪


どうやら満更でもない様子です。

ということで 冷たい関係だった妻と犯人が最終的には心が通い合うことだけが救いの「フレンチ警部と毒蛇の謎」を海外推理小説に追加しました。

1312antidote

フレンチ警部と毒蛇の謎 / F・W・クロフツ
(東京創元社 2010)
主人公:ジョーゼフ・フレンチ(スコットランドヤード主席警部)

フレンチ警部の登場は全体の3分の2位が過ぎてからで それまでは動物園園長の述懐。 園長は仕事の充実感はあるものの 私生活では 資産家の妻との冷たい関係に賭博癖に愛人問題が重なり 常に金銭問題を抱える状態。 あてにしていた叔母の遺産も 顧問弁護士が使い込み。 憤懣やるかたない園長ですが 弁護士の企みに加担するはめに。 同情の余地のない二人ですが 突然のフレンチ警部登場は「原監督にとっての清武さん」「猪瀬都知事にとっての能宗さん」に匹敵する青天の霹靂・疫病神だったかも。 

| | Comments (0) | TrackBack (0)

August 15, 2013

断腸亭日乗 昭和20(1945)年 8月15日より

(下巻 P273)
陰りて風凉し、宿屋の朝飯、?卵、玉葱味噌汁、はや小魚つけ焼、茄子香の物なり。これも今の世にては八百膳の料理を食するが如き心地なり、飯後谷崎君の寓舎に至る。鉄道乗車券は谷崎君の手にて既に訳もなく購ひ置かれたるを見る。雑談する中汽車の時刻迫り来る。再会を約 し、送られて共に裏道を歩み停車場に至り、午前十一時二十分発の車に乗る。新見の駅に至る間隧道多し。駅ごとに応召の兵卒と見送人小学校生徒の列をなすを見る。されど車中甚しく雑沓せず。凉風窓より吹入り炎暑来路に比すれば遥に忍びやすし。新見駅にて乗替をなし、出発の際谷崎君夫人の贈られし弁当を食す。白米のむすびに昆布佃煮及牛肉を添へたり。欣喜措く能はず。食後うとうとと居眠りする中山間の小駅幾個所を過ぎ、早くも西総社また倉敷の停車場をも後にしたり。農家の庭に夾竹桃の花さき稲田の間に蓮花の開くを見る。午後二時過岡山の駅に安着す。焼跡の町の水道にて顔を洗ひ汗を拭ひ、休み休み三門の寓舎にかへる。S君夫婦、今日正午ラヂオの放送、日米戦争突然停止せし由を公表したりと言ふ。あたかも好し、日暮染物屋の婆、?肉葡萄酒を持来る、休戦の祝宴を張り皆々酔うて寝に就きぬ。

荷風散人にとって 昭和20年8月15日は とても良き日だったようです。
充実した朝食やお弁当に夾竹桃や蓮花など愉悦に浸るかのような恣意的描写の一方で 玉音や陛下という表記はありません。
ただ荷風散人も「日米戦争」との記述から窺われるように 中国や朝鮮と闘っていたという意識は希薄。
結局 当時から 日本は米国には負けたが中国や朝鮮や露西亜に負けたという意識はないため 各国との領土問題でも 根底にあるこの認識の違いが障害となっているような気がします。

終戦記念日とは関係なく 大友良英とあまちゃんスペシャル・ビッグバンドのTromboneやTubaからの連想で「Numanatik Swing Band / Roswell Rudd & Jazz Composer's Orc.」をヴィニール・コレクションに追加しました。

1308roswell

Numanatik Swing Band / Roswell Rudd & Jazz Composer's Orc. / 1973年

元々Pops畑の私は 70年代初頭のNew/Art/Blues/Hard RockのCatchyなGuitar Riffに興味はあったものの 延々と繰り広げられるGuitar SoloやDrum Soloには付いていけませんでした。 とは申すものの 世はまさにAd LibやImprovisationの大ブーム。 そして私もブームに乗り遅れては大変とばかり 色々物色 結局辿りついたのが 何故かFree JazzのImprovisationでした。

解説より(中野宏昭)

彼のトロンボーンの特徴は、アクセントのはっきりしたリズム楽器的な吹奏にあり、スタッカートとスラーとの絶好な調合は、時にはユーモラスな印象さえ与える。こうしたスタイルは、スムースなメロディーを主体とするJ.J.ジョンソン以来のモダン・トロンボーンにはなかったものであり、彼の出現により、ジャズ・トロンボーンは新たなる展開を迎えたと言っても、さほど言い過ぎにはならないはずである。このアルバムの登場を機に、より多くの脚光がラズウェル・ラッドに当たることを願わずにはいられない。このレコードのタイトルである「Numanatik Swing Band」とは「Pneumatic Swing Band」のことであり、"空気を伝ってスイングさせるバンド"といったほどの意味であろうが、Pneumaticは同時に、その別の原義通りに"スピリチュアル"という意味と、"楽器の管の震動"という意味をもたせられているように思える。オーケストラの面々が空中に伝播させる響きは、演奏者の霊感から聴者の霊感となってキャッチされ、管の震動は空気の震動を経て聴者の感覚の震動を鼓舞するからだ。こうした言い方は牽強付会になりかねないのだが、ここに聴く音はそうしたことを感得させるに十分だと言えるだろう。

当時の私は こんな難しいことは全く考えておりませんでした。(字数稼ぎとの思いも少し) StoogesやMC5やVelvet Undergroundに匹敵する破壊力をFree Jazzの咆哮に見出した次第。 今日の真っ当な社会人が「暴力・破壊衝動」を解消せんとPacific Rimを観るのと同じような感覚かもしれません。
 Lullaby For GregにおけるおどろおどろしいShaila Jordan姐と怨霊を鎮魂するかのようなDewey Redman師の調べとの対比がなかなか見事です。

Sonic Youthを従え熱演中のRudd氏。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

より以前の記事一覧